番組に寄せられた被災体験、ご意見・ご感想メールの紹介です。
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僕の父親の長女夫婦と子供、次男夫婦と子供、三男の妻が現在の亀戸5丁目に住んでいましたが、3月10日の東京大空襲の、あの日についてはよく話してくれましたし、次男・春夫は、石川島播磨重工の造船部長まで務めた技術陣のトップだったこともあり、詳細な手記を僕に残しています。
逃げた方向や地点のわずかな違いで、生死を分けたことがよく分かりました。
僕の伯父さんらは、現在の江東区堅川の土手に伏せて火の粉の川のような流れから身を守りましたが、わずか数十メートル横に伏せていた別の家族は翌朝全員が焼死体になっていたそうです。
何とむごたらしい光景だったかと思います。
50代 男性
私の母の家族が体験。そのころ家族は深川清澄町に住んでいました。
母は空襲の日女学生で中島飛行場軍需工場二夜勤でいました。夜中三鷹から空を見たら深川方面が真っ赤でものすごい広さの赤でした。何かあった空襲だーーー
悲しい気持ちで夜勤明けで歩いて6時間深川に着いた途中瓦礫むごたらしい遺体のやまを超えてきたので時間がかかったそうです。母は自分が遺体に対してだんだん
無反応になったのが悲しかったといっていました。もっともっといいたかったようですが残念ながら2年前なくなりました。
家族は奇跡的に生き残りましたが夜勤でない友人は亡くなりました戦争はいやだ一般庶民が爆撃されると言っていました。
50代 女性
祖母が小岩に住んでいました。祖母が亡くなる前に、よく語っていたのは、東京大空襲の直後から、大勢の人が小岩の方に押し寄せてきたそうです。
慌てて近所の人を集め、おにぎりと漬物を配ったそうで、長い長い列ができたとのころです。
「飲まず食わずで歩いてきて、こんなにおいしいものを食べられるなんて」と涙を流して喜ぶ人達が多かったと語っていました。
この日まで、女学校の友達と一緒に残ると疎開をせずに頑張っていた祖母の長女も、川に沢山の人が浮いていて、赤ん坊を抱いた女の人の姿もあり、その様子を祖母に語って聞かせたそうです。そして、私も疎開をすると言ったそうです。
40代 女性