白根さんの娘や孫も初めて知る、空襲の記録です。
「これもめがねなの。入っているのよちゃんと、すごいね火かぶって」
「人通りがすごくてああいうところで沢山の方が亡くなったって、想像できない」
67年たって初めて語られる白根さんの体験。そこから分かったのは、3月10日以外にも多くの市民が無差別攻撃で亡くなっていたという事実でした。
「特に3月10日は下町のひどい状態言い伝えられているけど5月は知らない方多い。本当に皆さんの記憶に残るかどうか、よっぽどああいうことを声を大にして言われない限り」
東京大空襲の遺族たち。両親を失った孤児たちは、そのあと長く過酷な人生を強いられています。
これは孤児などの収容施設です。貧しさから盗みを働いたり、預けた親戚宅から逃げ出したりしたため、大勢が施設に収容されたといいます。
当時墨田区に住んでいた吉田由美子(よしだ・ゆみこ)さん、70歳です。
3月10日の空襲で両親と妹の3人を亡くし、わずか3歳で孤児になりました。
空襲の3時間ほど前、吉田さんは偶然近所の親戚宅にいて、家族とは離れていました。
「おばさんが迎えにきて両親のもとを離れて横川にうつったと思います。その数時間後に空襲が始まって、それで一生親子離れてしまいました。」
たった一人生き残った吉田さん。その後親戚に預けられますが、厄介者扱いされ続けました。
「一人残されるということはお荷物、親戚にとってみても。」
まだ3歳で幼かった吉田さんは働き手にもならないと、親戚中をたらい回しされました。
「お前も親と一緒に死んでくれればいいものを何でお前は生きたんだ。お前が死んでくれれば面倒なんてみなくてすんだんだよ。というぼやきというのは耳に入りました」
小学校の卒業写真。親戚宅には制服を買う余裕もなく、普段着のままの卒業式でした。
毎朝両親の写真に手を合わせる吉田さん。
遺骨はなく、焼け残った写真もわずか数枚。一人孤独を抱えて生きてきました。
「いつもお守りいただいてありがとうございます」
東京大空襲で孤児となった自らの人生を語り伝えたい。吉田さんは年を重ねる中で、決意を固めています。
「生きたものの務めとして空襲や戦争は被害をずっと永久にひきずっていかないといけない。これが戦争、空襲だよって知ってもらわないと、親もかわいそうに思った」