しかし白根さんが遺品を寄贈してから15年近くがたった今も計画は進まず、遺品は都の倉庫に眠り続けています。
去年の夏、白根さんは空襲の遺族らで作る市民グループと出会いました。
そのメンバーにそれぞれの体験を文章にして書き残そうと、何度も説得され手記を書くことにしました。
「ずいぶん多くの方が何も言わず亡くなっているわけですから話すことも仕事かなって思えてきたので書いてみようという気になりました」
「表参道が燃えた日」。白根さんが書いたのは、3月10日ではなく、これまでその実態がよくわからなかった5月25日の空襲でした。
そこには若者たちで賑わう原宿や渋谷周辺の街がかつて焼け野原となったことが記されていました。東京は千葉と相模湾からの敵機襲来で空が真っ赤でした。
完全に焼け野原で道玄坂か宮益坂かもわかりません。目をこらして見つけたのは、急な坂の途中の鉄筋の建物でした。たしかあれは郵便局、その頃鉄筋でできていたのは郵便局だけでしたので、ようやく宮益坂だなとわかりました。