戦争孤児の山田清一郎(やまだ・せいいちろう)さん77歳です。
孤児として、どう生きてきたのか。つとめ先を退職した後、語り始めました。
「こんにちはー。こんにちはー。」
いま、自らの体験を各地の、子どもたちに伝えています。
昭和20年の神戸空襲の中、山田さんは母親と一緒に逃げました。
しかし、身を隠していた防空壕が爆撃を受けます。
「母親が早う行けと、押し出したのですね。で、出て振り返ったら防空壕が崩れてしまいました。母親が生き埋めになってしまいました。たった一人となってしまいました。戦争孤児となりました。」
当時、山田さんは10歳。神戸や東京などの駅や公園で寝泊まりする生活が始まりました。
「戦争孤児になってから、これからお話ししますけど、人に自慢できる話は一つもありません。恥ずかしい話ばかりです。孤児の体験は自分の子どもにもあまり話していません。なぜかというと話すような内容ではなかったんですね。」
山田さんが話したのは、同じ境遇の孤児たちと身を寄せあいながら、食べ物を手に入れるのも必死だった、毎日でした。
「あるとき、商店街のところから、アキラがトマトを盗んで逃げたらですね、ちょうどジープが来て、そのトマトを抱いたままアキラがジープにひかれて亡くなってしまうんですけども。その後を追いかけていったら、道路にその、血だらけの中に、アキラが盗んだトマトがですね、こう、転がっているんですね。で、そのアキラの血の中にトマトが動いているんですね。もう泣くに泣けないというかね。すごく、そのアキラとトマトのことが印象に残って。私はトマトを見る度にアキラのことが思い出されて、今でも私はトマトが食べれません。」