戦争孤児の体験を子どもたちに話している、山田清一郎(やまだせいいちろう)さんです。
孤児としての苦しみは、戦後もずっと続きました。
山田さんは2年もの路上生活の後、12歳の時に、長野県にできた、戦争孤児の施設に保護されました。
施設にいたのは、同じ身寄りのない戦争孤児12人でした。
新たな生活を始めた子どもたち。しかし待っていたのは、つめたい差別でした。
この絵は、山田さんが忘れられない学校での光景です。
入れられたのは、地元の子どもたちとは別の、『犬小屋』と描かれた教室でした。
『どんな思いだったか』。
子どもたちに、話し始めました。
「一番困ったのは、学校問題。学園から小学校へ入れるのに、村の人たちはみんな反対。浮浪児は学校に入れるな。野良犬は学校に入れるなばい菌の塊だみんな反対していた。(戦争孤児)ずうっと学校、学校と言いながら学校に行けなくて。翌年になってやっと学校に行かれるようになったんですね。6月に。やっと学校にいけるぞと、学校に、(西尾)小学校に行った。入っていったら入っていく教室がない。先生が連れて行ったところは3階の物置。小さい部屋を片付けて。机が3つ置いてあって、黒板が置いてあるだけ。これがお前たちの教室だ。えっー、これ教室。黒板になんて描いてあったか?「浮浪児、犬小屋」って描いてある。おそらく子どもが、生徒がいたづらをしたんだと思うですよね。なんで先生がそれを消さなかったのか?私は4、5、6、3年間学校に行けませんでした。他のみんなも同じです。3年間学校に行っていないんです。その3年間行けなかった子どもたちがやっと来る日なのに、それを温かく迎えようとする教師が1人もいなかったということですよね。今でもその日のことは私は忘れません。」
最も苦しかったとき、自分で生きぬいていくしか、ありませんでした。
「少し経ってからですかね、ひと月ぐらいでしたかね。やっとそれぞれの学年の教室に行きました。ところがさらに大変です。勉強が全く分からない。3年生だというのに名前も書けない。5年生だというのに九九も言えない。そういう子が教室に入っていったら、なんて言われるか。『バカだ。乞食だ。浮浪児だ』みんなから言われます。それで、私たちはですね、何とかしなくてはいけないというので、とにかく勉強に頑張る。バカにされないようにするには勉強するしかないというので。なんでそこまでしたかというと、一度開いた学校の門をですね、自分たちで閉じるようなことはしたくなかったわけですね。やっと、やっと行けるようになったのに、自分たちが嫌だからって、行かないということはしない。」
この日話を聞いていたのは、様々な事情から親と一緒に暮らせない、養護施設の子どもたちでした。
「私は自分の体験から、人は壁にぶつかった分だけ強くなっていく。少しずつでもいいから前に出て行く。そういうものを是非持ってほしいと思います。」
「戦争は体験したわけではないけど自分も実際、お母さん、家族に会えていない状態で。そういう言葉を聞いて、自分も実感することがあって。なんか…すごい山田さんの話をきいて、すごい感動して・・・。とても心に残りました。」