特報首都圏【総合・関東甲信】3月8日(金曜)19:30-19:55 番組公式サイトへリンク

3月8日(金)「それでも 私は生きた-いま明かされる戦争孤児の実像-」

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記録にも写真にもない悲惨体験を『絵』で再現する孤児

いま大きな取り組みとなっているのが、孤児たちの厳しい体験を聞き取りして、絵によって再現し、残していこうというものです。

記録にも残っておらず、写真にも映っていない、孤児たちが、忘れられない瞬間を描いています。
これは孤児の目に焼き付いている、東京大空襲の瞬間です。
火の海に囲まれ、全身にヤケドを負いながら隅田川に向かって逃げました。
しかし、逃げ惑う人混みの中で、一緒だった父と母から離れ、それきりになってしまいました。
「(親と)分かれた場所は、この向こうですね。なぜ自分だけ助かったのか、未だに分かりません。」

孤児の体験を絵に描いている、狩野光男(かのう・てるお)さん82歳です。
この空襲で家族を失い、戦争孤児となりました。
「(親の)遺体も確認していないので遺体の確認は叔父とおじいさんが行って確認して。仮埋葬してきたので。私は実際は、見ていないので。孤児になったという実感が、なかなか、わかなかったんです。」

狩野さんは自分の体験を絵に再現したのをきかっけに、多くの孤児たちと体験を絵で残す活動を始めました。
過酷な体験を人前で話すことや、名前を出すことを躊躇する孤児たちからも、話しを聞きとっています。

ある孤児は、銀座の路上で暮らし、タバコの吸い殻ひろいが生業(なりわい)でした。
吸い殻の中の、わずかな葉を集め、売ることで、何とか食料を得ていました。

空襲で亡くなった人の、墓標を盗んでいた孤児。たきぎにして、凍える寒さの中で命をつないでいました。

日本刀を振りかざす孤児。親がいないことで同級生からいじめられ、逆上し、殺そうとしたといいます。

これは狩野さんが見た、忘れられない瞬間です。
東京・有楽町のガード下にいた娼婦たちの中に、孤児となっていた幼なじみを見つけました。

「この子は私が小学校の時によく一緒に遊んだ近所の女の子なので、その女の子がまだ14、5歳だったと思うんですけども/この子の名前を呼んでしまったんです。そしたら向こうを向いて、さっと向こうへ行ってしまった。」彼女の悲しげな目を、狩野さんはいまもはっきりと覚えています。
「やはり人に言えないことをしてきた人もいますし、思い出すのも嫌と言うこともありますし。思い出すことによって自分がその時の気持ちに一回戻るわけですよね。これすごいつらいことなんですね。孤児と言っても70(歳)半ばを過ぎていますから。あとどのくらい生きいるか分かりませんから。せめて命のあるうちに自分たちの体験を残したい。」

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2012年の放送内容はこちら